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「福翁自伝」② [読書]

ようこそです。 

慶応3年34歳の諭吉は再びアメリカへ渡ります。 

このときはワシントンに周り軍艦を買うなどした。
胸の内は開国とは名ばかりの幕府や攘夷勢力への不信を抱えている。
それを知ってか帰国後外国奉行から謹慎を命ぜられ
引っ込んで「西洋旅案内」を書いていた。

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ざん切り頭がまだサマにならない[ー(長音記号1)]

 

世の中いよいよ王政維新の始まりで物騒になってきたが
福沢本人は政治に関係しないスタンスをとっていた。
”人に軽蔑されても下の者を辱めることはできない”
という家風が父母共にあり、立身出世や故郷に錦を飾ることは
気恥ずかしいものであった。
御紋服を拝領してもその日のうちに売り払い
禄をもらって旗本となるも殿様という呼称は使わなかった。
  
江戸で維新の戦いが始まったその頃、新銭座に普請し慶應義塾を開く。
上野で鉄砲が鳴り響いているときに経済(エコノミー)の講義をやっていた。
「世の中に如何なる騒動があっても慶應義塾は一日も休業したことはない、
この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、
世間に頓着するな」と生徒を励ました。
義塾では生徒から毎月金を取る授業料をはじめて採用する。
目上に対し必要以上の敬礼は廃止。
東洋に欠けるのは数理学と独立心とみなしこれに重きを置く。
島原藩の屋敷を東京府より買い、慶應義塾は三田に移る。
  
維新前後は暗殺の心配に悩まされた。
三田構内の住まいの床下に逃げ道を作っておいたり
国内を旅行中は恩師やいとこにも警戒怠りなく
名前を伏せて逃げなければならなかった。
明治8年ごろから暗殺のターゲットが政府の役人に代わり
洋学者は免れるようになった。  
時代は進み元士族も廃刀。
”人の知恵を借りず人の指図は受けず
人間万事天運にあり”と自力本願の気風を貫く。
商売には頓着しないが著者翻訳に関する出版については
紙や職人を集め製本を直轄にした。
  
何事にも執着せず世間や人との距離をとり
慣習にしばられず着々と思うところを遂げる。
酒の席で色事の話が出ればこれをかわし
女性と同席しようと特に意識することもない。
結婚して九人の子をもうけたが
軽重愛憎、秘密のない家風。
遺言状に関して”死後見せることを生前に言うことが出来ないとはおかしい。
タンスのひきだしに入っているから皆よく見ておけ。
俺の死んだ後で争うような卑劣なことはするなよ”
と言い笑っていた。
  
当時の受験地獄にも苦言を呈す。
子供のうちは身体第一自由に育てるべき。
長男次男を帝国大学の予備門に入れたら
体を悪くし手当てして返したらまたぶり返す。
時の文部省長官に意見しても変わらず
”東京大学は少年の健康屠殺場”と批判、
慶應義塾を卒業後アメリカに留学させた。
  
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洋装も貫禄がついてきました[揺れるハート]
  
開国しても政府の役人の体質が肌に合わず
なろうとは思わなかった。
”一国の独立は国民の独立心から湧いて出る。
全国男女の気品を高尚に導き文明の名に恥じないようにしたい”
と立派な志で締めくくっています。
  
本書の解説で慶應義塾塾長をつとめた小泉信三は
”福沢が生きた時代について多くを語る。
彼の批判力はその描写をおかしみのあるものにし
優れた戯画を描く”と書いています。

  
  
「福翁自伝」印象に残ったのは
世間と距離を置き物事にこだわらない福沢の性格です。
まだまだ江戸時代の因習が色濃い中
その態度を貫きながらあれだけの業績を残せるものなのか。
ならば現代でもどの時代でも悪しき風潮に流されず
真に有効なことのみを考え実行できるに違いない。
一方で文明開化の激動の時代に
生まれるべくして登場した運命を感じます。
偉大な人物は大きい視野をもって
時代を牽引し歴史を作るのだと改めて感じる一冊でした。
  
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また次回[ー(長音記号1)]



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